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山と仲間を大切に yama no kai komorebi

労山趣意書 PROSPECTUS

連盟の趣意書は下にあります。

勤労者山岳会趣意書 1960年4月ROZAN-SHUISHO

登山の正しい大衆化

 最近、勤労者の健全なスポーツとしての登山がさかんになってきました。しかし一方、遭難事故なども多くなり、全国では毎年100人近くの登山者が死んでいます。したがって、「登山の正しい大衆化」が現在わが国の登山界の急務だと思います。

正しい大衆化をはばむ条件

 しかし、今の日本の社会には、登山の正しい大衆化をはばむ二つの条件が存在します。
 第一に勤労者のおかれた経済的、時間的条件であり、これは労働条件の問題につながります。
 第二には、登山に対するあやまった考え方と、登山の組織のあり方の問題です。これは日本の社会思想と深いつながりをもっています。

労働条件の問題

 この頃の遭難事故の原因をしらべると、高級技術が出来ないためのものはほとんどなく、悪天候をおかして歩いたためのものが大部分です。わたしたちは登山の安全性の見地から、山に入っていつも気にかけることは、あたえられた休暇が少ないことから、まず日程や時間のことです。そのため、決めたコースや日程を消化しようとして、嵐の中でも無理に歩いたりして遭難をおかしてしまうのです。
 しかも遭難がおきると、商業主義的報道機関はこのような勤労者がおかれている社会的条件は無視して、もっぱら遭難の原因を技術や装備の程度にもとめて報道しています。このことはかえって登山における英雄主義をあおりたてる結果になっています。

英雄主義のあやまり

 英雄主義的考えかたは登山に限らず、ほかのスポーツにもみられることですが、登山を健康の増進とか、生活をゆたかにするためのものとして考えずに、記録を作るためには生命をかけてでも登ろうとします。わたしたちは大学の山岳部の上級生が、新入生に石ころをつめた重い荷物を背負わせ、首になわをつけて、うしろから牛馬を追いたてるように棒でしりをたたきながら歩かせている光景をよく見ますが、このような方法では登山技術の向上どころか、かえってからだをこわしてしまい、記録を上げることはできません。スポーツの記録はすべて科学的な訓練による技術と体力の増進の結果であり、日常の正しい生活態度のたまものでなくてはなりません。

逃避的登山と山岳至上主義のあやまり

 つぎに逃避的な気持で山に入る者、あるいは山をことさらに神聖化し社会と隔絶させておこうとするものが多くあります。  ある山の仲間は里を恋しがるものを、あれは山男ではないと軽蔑します。そして彼らは社会生活のことは考えず、ただ山ばかり歩いているのが尊敬すべき山男だと信じているのです。このような考えかたは職場の山岳サークルなどの中にもしみ通り、同じ職場の労働者仲間と遊離したものになっているものがよく見うけられます。
 登山はただ山へ登るということのほかに、社会から離れた山奥で、きびしい自然の力とたたかいながら生活するという、生活技術の問題が大切な要素をなしています。したがって登山はわたしたちに高い科学性と実用主義を要求し、社会のあらゆることがらと有機的なつながりをもって発展していかなくてはなりません。
 毎年、数ヶ月をアルプスの奥地でくらしていると、わたしたちは山にいて里を恋しく思います。山での生活はわたしたちに人間社会の意義を教え、人間同志が力を合わせて生きていかなくてはならないことを教えます。
 また一方、都会の勤労生活の中からこそ、わたしたちは山を美しいと感じる心を持つことができるのだと思います。だから勤労者こそ、真に山の美しさを知り、また登山によって、よりよい平和な社会をつくるために働くことのよろこびと勇気をあたえられる人たちではないでしょうか。

官僚的登山組織の欠陥

 全国の各地には、観光関係や遭難対策のおおやけの組織がありますが、それらの多くは諸官庁の役人、運輸関係会社、官僚的山岳会の役員などによって幹部が構成されており、現地でもっとも働いているはずの山小屋の経営者(またはその代表者)などはめったに幹部に加わってはいません。小屋の管理者などは一級下の階級だと見られているむきがあるからです。このことは遭難対策の上でも大きな欠陥になっています。
 わたしたちはしばしば「どこそこの山は自分が開いたんだ」などといって、大みえを切っている登山家を見うけます。なるほどかれらは昔、そこへ登ったかも知れませんが、かれらが登山道を作ったり、ヤブを切り開いたという話は聞いたことがありません。しかし山小屋の経営者の中には、そういうことをやっている人たちが多くいるのです。われわれはこうした人たちの立場を正当に認めるとともに、かれらから山での生活の知恵をまなぶなどして、おたがいに高めあうことも必要です。

登山道徳は社会の文化性の問題

 最後に、これはもっとも重要なことですが、登山家のなかには、山が大衆化されることを、山が俗化するとか、登山道徳がすたれるとかいって反対する人がいますが、このことはかえって正しい大衆指導をおこたる結果になっています。山が荒らされるのを防ぐには登山人口を制限すればよいと考えるのは大まちがいです。山の道徳といっても社会のありかたと無関係ではありません。人のいない山に道徳があるのではなくて人間社会の中に道徳が生まれるのです。山が俗化する、しないの問題はまったくこの社会の文化性の問題にほかなりません。
 わたしたちは山を愛する日本の登山家にうったえたい。あなたが山を愛するならばこの日本の社会にも目を向け、平和な住みよい社会であることも愛してほしい。そして登山の正しい大衆化のために力を出していただきたいと。

 以上のようなわけで私たちは、勤労者のための正しい登山運動を促進させてゆくことの必要性を痛感し、ここに勤労者山岳会を作ることになりました。
 この運動を発展させるために、勤労者の皆さんの積極的な参加と、各方面の活動家、業者の皆さんのご協力をお願いする次第です。

1960年4月 勤労者山岳会 発起人(50音順) 伊藤正一 木村禧八郎 黒田寿男  小林国夫 高倉テル 田中澄江  田辺和雄 谷口千吉 中島健蔵  平野義太郎 深田久弥 袋 一平  松本善明 丸木位里 丸木俊子 山本薩夫

日本勤労者山岳連盟趣意書 1978年2月RENMEI-SHUISHO

  わが国の近代登山は、すでに80年近い歴史を持っている。その創立期に活躍したのは、社会的・経済的に恵まれた青年たちであったが、1930年代(昭和初期)には国民的なスポーツ・レクリエーションとして発展する道をたどりはじめていた。だが、登山の正常な発展は、軍国主義の支配と侵略戦争の拡大によって著しく阻害された。

 戦後、わが国の登山はかつてない発展の時期をむかえた。社会の民主的変革をめざす諸運動の高揚とその成果が、文化・スポーツの分野でも新しい発展をうながしたからである。だが、国や自治体、既存の山岳団体はその新しい状況に有効に対応することができなかった。登山の新しい発展を担うべき新しい理念と組織が求められたのである。
 1960年(昭和35年)、登山を愛好する進歩的な人々によって「勤労者山岳会」が結成され、勤労者による新しい登山運動が提唱された。その運動は短期間に全国に広がり、1963年、「日本勤労者山岳連盟」が結成されるに至った。
 「日本勤労者山岳連盟」は、わが国の登山の優れた伝統を継承するとともに創造的な活動を展開し、登山の発展に力を尽くしてきた。そして今日、日本の登山界のなかで揺るがぬ地歩をきずいている。

1. 権利としての登山

 今日、登山の真の担い手は勤労者である。したがって勤労者が束縛されているさまざまな社会的制約から解放されないかぎり、登山の真の発展はあり得ない。
 登山を楽しむためには、賃金、労働時間など労働条件の改善が不可欠の条件である。また国や自治体による登山者教育、山小屋建設、登山道整備、交通体系の確立など、さまざまな政策の確立が必要である。それらはヨーロッパ諸国にくらべ、わが国ではひどく立ち遅れている。そればかりでなく、国や自治体あるいは企業のなかに勤労者の自主的な文化・スポーツ活動にたいする偏見や敵意がいまなお温存されている。勤労者が求めているのは、「官製」「社製」などの恩恵的にあたえられる文化・スポーツではない。自らの要求に基づく、自ら自身のための文化・スポーツである。
  すべての国民は“人間らしく成長し、人間らしく生きる権利”を持っている。登山をはじめ文化・スポーツは、その権利の重要な構成部分である。国や自治体はその権利を保障する義務がある。それを実現するため登山者は、広く国民との共同行動を発展させるための力をつくさなければならない。

2. 登山の多様な発展

 わが国の自然は美しく豊かである。山と高原、渓谷、森林、雪渓、岸壁、そして四季それぞれの変化-それは多様な登山を発展させる自然条件である。そればかりでなく、古い時代に成立した山岳宗教をはじめ、さまざまな文化的影響を受けてわが国独特の登山が形成されてきた。今日、登山は国民に最も親しまれるスポーツ・レクリエーションとして多様な形で発展している。
 最近における経済の「高度成長」とそのもとでの都市人口の急激な増加は、人間と自然の結びつきを弱め、精神と肉体を損傷した。豊かな自然のなかで生活したいという願いは、健康を守ろうとする意識の強まりとあいまっていっそう切実なものとなり、登山に対する国民の関心と欲求はかつてなく高まっている。
 国民の求める登山はけっして同一のものではない。それぞれの意識や年齢、生活条件によって、多様な形態と内容の登山が求められている。その実現に力を尽くすことによってのみ登山の創造的発展もまた可能である。

3.海外登山の普及

 海外登山・トレッキングもまた活発に行われ、ヨーロッパはもとよりヒマラヤ、アラスカ、アンデスなど広範な地域に及んでいる。国内では経験することのできない自然条件下での登山、あるいは風土、言語、習慣などの異なった国々での生活経験は、登山者の人間的成長に大きな影響をもたらす。また登山を通じての親睦・交流の広がりは、国際連帯の精神を育てるだろう。海外登山の活発化は歓迎すべきことであり、さらに発展させなければならない。
 海外登山の経験と成果は全国的にも地域的にもかなり蓄積されている。だが、その普及は立ち遅れている。海外登山の普及を歓迎しない風潮や登山界の伝統的な閉鎖性がなお残されているからである。それを克服し広範な登山者と海外登山との結びつきを深めなければならない。国内での多様な登山の発展と海外登山を結合させることによって、登山はいっそう内容豊かなものとなるだろう。
 確固とした世界平和は、海外登山発展の基礎である。諸国民との相互理解、友好をさらに深めることが強く求められている。

4.遭難事故の防止

 生命の尊厳はなにものにもかえることはできない。それにもかかわらず多くの生命が山で失われている。われわれもまた少なくない仲間を失った。
 厳しい自然のなかで行われる登山においてその安全性が確保されるためには、登山者の教育・訓練が不可欠の前提となる。山岳団体の多くはそのことを自覚しており、真剣に取り組んでいる。だが、その努力は必ずしも充分な成果をあげ得ていない。
 また、注目しなければならないのは、広範な登山者が山岳会に組織されていないことである。その登山者の教育・訓練は、有力な山岳団体の善意の努力だけでは解決できない。国や自治体の積極的な取り組みが必要である。
 だが国や自治体はその責任を回避して、登山規制を強化するなど消極的な対策に終始してきた。もとより登山における安全性は登山者の日常的な努力によって確保される。そのためにも、国や自治体によってすべての登山者に教育・訓練を受ける機会があたえられなければならない。また遭難救助のための人員、資材、資金などを保障する制度の確立は、国や自治体の責任である。
 それぞれの山岳団体における教育・訓練の改善、救助体制の確立は、さしせまった課題である。現実に少なくない遭難事故が起こっている以上、放置することができないからである。それぞれの山岳団体が独自に努力するばかりでなく、有力な山岳団体の相互協力が必要となっている。
 遭難事故を考えていくうえでけっして忘れてはならないことは、現代社会の退廃的風潮の影響である。それは生命を軽視する傾向をつくりだしている。その傾向とたたかうことが重要な課題となっている。

5.自然をまもる

 わが国の自然は、過去十数年の間にかつてなく大規模に破壊された。それは国民の生存そのものが憂慮されるほど深刻な事態をつくりだしている。
 山岳自然の破壊もはなはだしく進んだ。国や自治体はそれを規制するどころか先導的役割さえ果たした。登山者をはじめ広範な人々がそれに反対し、少なくない成果をあげた。だが、山岳自然の大がかりな破壊をおしとどめることはできなかった。
 「過疎対策」「観光開発」「水資源開発」などの美名をかかげて進められてきたこれまでの開発は、山村生活を深刻な危機におとしいれている。それらの開発が、山村の犠牲のうえに大資本の利潤増大を追及するものにほかならなかったからである。自然を守り育ててきたのは、そこに生活する勤労者である。生活に根ざす切実な要求と結びつかない開発は、よりよい結果を生まない。自然を守る運動もその立場を貫かねばならない。
 「観光開発」で重視しなければならないのは、「すべての人に山を楽しむ権利がある」という主張で、ロープウェイや観光道路の建設が正当化されていることである。バスやロープウェイによる“観光登山”では風景を眺めることはできても健康を増進することはできないし、自然への愛着を育てることはできない。また、それは山岳自然の荒廃をもたらす誘因ともなっている。山岳自然の荒廃は登山の楽しみを奪うばかりでなく、登山そのものの荒廃と人間の荒廃を導く。
 豊かな自然は将来にわたる国民の共有財産である。これを守り育てていくことは登山者の重要な責務である。
 われわれはこうした認識と立場に立って、登山の創造的発展のために運動を進めている。そしていま登山の新しい発展のため、心を一つにして尽力しようと、広く登山を愛好する人々に呼びかけるものである。

  日本勤労者山岳連盟  (1978年2月)